第63回 革命家の死

1959年1月キューバ革命は成就した。

その年にチェ・ゲバラは新政府の国立銀行総裁として日本を訪れたが、日本のマスコミはこれをほとんど無視している。来日中のゲバラは精力的に日本各地を視察し、広島平和記念公園や原爆資料館なども訪問している。

1960年8月、キューバ新政府はアメリカ資本から成る石油関連産業を接収、国有化したことに対し米国はキューバへの経済封鎖を決行。翌年にはジョン・F・ケネディ大統領がキューバ侵攻作戦を認可したため、アメリカ政府の支援の下、フィデル・カストロ革命政権の打倒を画策したプラヤ・ヒロン侵攻事件が勃発したが、ゲバラはカストロと共に侵攻軍を破っている。この事件の後、カストロはキューバ革命の社会主義革命化を宣言。ソビエト連邦との接近を強めた結果、翌1962年にキューバ危機(1962年10月14日から28日までの14日間にわたり米ソ間の冷戦の緊張が全面核戦争寸前まで達した)が勃発することとなった。

その後ゲバラは工業相に就任したが、経済封鎖による資源不足、さらに社会福祉事業の無料化により経済が逼迫していく中、「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、自らも休日はサトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ積み等、積極的にボランティア活動に参加した。しかしこうした姿勢は真面目で理想主義的なゲバラをキューバ首脳陣の間で孤立を深めさせていくこととなる。

ゲバラはキューバの盟友だったアルジェリアで行われた経済会議において、キューバの主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し論争を巻き起こした。その結果、ソビエト連邦は「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」とキューバ政府に通告。これを受けたゲバラは政治の一線から退くことをカストロに伝え、カストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。

キューバを離れたゲバラは1965年、コンゴ民主共和国に渡り、現地での革命の指導を試みるも式の低さに失望。再びキューバに戻ったのち、新たな革命の場としてボリビア革命の起こったボリビアを選択する。しかしながら親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、また革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たなかった。ボリビア政府軍は冷戦下において反共軍事政権を支持していたCIAと米軍特殊部隊グリーンベレーから武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、苦戦を強いられることとなる。

1967年10月、20名ほどのゲリラ部隊とともに行動していたゲバラは、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。翌朝ヘリコプターで現地に到着したCIAが「ゲバラを殺せ」を意味する暗号を受信し、政府軍兵士に射殺を命じる。ゲバラは右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。

ゲバラとは一体どんな人物だったのだろうか。誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだ。しかしながら、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」とささやかれたという。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。カストロいわくゲバラは「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」としたが、そこには揶揄の意味も込められていたのだろう。常人離れした行動力で争いをまき散らす男、強い意志を持った清廉な理想主義者…彼を形容する言葉はその立場によってさまざまだが、自己犠牲をいとわない行動力のある魅力的な理想主義者であったのは間違いない。

関連記事

ページ上部へ戻る