第67回 エビータ

映画やミュージカルでもその名前を聞いたことがある人は少なくないだろう。エビータとはアルゼンチンのフアン・ペロン大統領(第29代・第41代)と結婚し、ファースト・レディとして政治にも介入し女性である。

エビータことマリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(María Eva Duarte de Perón)はアルゼンチンのパンパ(大草原)にある貧しい村で私生児として生まれた。高等教育も受けないまま15歳で家出をしブエノスアイレスに上京する。上京後、モデルの仕事をしつつ、高級売春婦としても生計を立てていたが、ラジオドラマの声優や映画女優として活躍するようになり、1943年軍事政権のパーティーの場でのちに大統領となるフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会う。

政界に強い影響力を持つペロンの愛人として過ごし、自身のラジオ放送番組によってペロンの民衆向け政治宣伝を担い、第二次世界大戦下で中立国として連合国と枢軸国の双方へ牛肉の輸出を行うことで膨大な外貨を稼ぐ一方、ラジオを情報源とする貧しく無学な労働者階級から大きな支持を得た。「エビータ」の愛称はラジオドラマの頃から使われ始めたものである。

1945年10月に、中南米に強い影響力を持つアメリカの支援を受けたエドゥアルド・アバロス将軍によるクーデターが起き、ペロンは軍事裁判で有罪判決を受け服役したが、支持母体の弱かったアバロスはすぐに政権を放棄したためにペロンは釈放さる。エバはその直後ペロンと結婚。選挙母体であるアルゼンチン労働党の支援で選挙戦を戦ったペロンは1946年にアルゼンチン大統領に就任した。

ファースト・レディとなったエバは、高等教育も受けていなかったが、夫の地位を背景に積極的に国政に介入するようになった。夫の指示を受けて婦人部門を組織させた上に女性参政権を導入(女性票の獲得が目的)させ、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立。毛布、食料などを配布(その一部は敗戦による困窮状況にあった日本にも送られた)するなどし、「バラマキ政策」を武器に労働者階級を主な支持層として政権安定に貢献を果たす。しかしながら、ばら撒いた資金は税金のみならず、労働者や企業から半ば強制的に取り立てた「献金」によってまかなわれていたため、アルゼンチンの経済に大きな悪影響を与えた。

下層階級出身のエバが選挙で選出されたのではないにも関わらず国政に参加していたことや経済状況も顧みずに公私混合の「バラマキ政策」を行っていたことは教育を受けた中流層以上の知識階級や富裕層、軍上層部から大きな批判を浴びた。またかつて水着モデルで元高級売春婦、愛人というその経歴からも批判を浴びるようになる。

1947年にはヨーロッパ外遊を行い、スペインやイタリア、バチカンやイギリスなどを訪問し、スペインのフランコ総統やイタリア大統領など多数の国家元首と会見。 第二次世界大戦においてアルゼンチンは中立国でありながら、ヒトラーやムッソリーニなど枢軸国寄りの姿勢を保ったことから大戦後にファシストの一員として見なされたペロン政権を、ヨーロッパにおいてイメージアップする大規模な広報活動を目指すものであった。

この外遊では大戦中に蓄えた外貨をこれらの諸国にばら撒くととともに、エバに勲章を与えるように各政府に要請したほか、元首や国王との公式晩さん会を開くように依頼したものの、イギリスは選挙で選ばれたわけでもない上に、毀誉褒貶が激しかったエバとの公式晩さん会を開催することを拒否、バチカンも法王との会見は行ったものの勲章を与えなかった。帰国後はエバ人気に乗じてペロン大統領はエバに副大統領の地位を与えさらなる政治的権力を得ようとした。政府内におけるエバの影響力の増大を嫌う軍部はこれに危機感を募らせたが、直後にエバが子宮癌と診断を受けたこともあって、ペロンはそのポストを与えることを断念した。

エバは1952年に33歳の若さで子宮癌によって死去、ブエノスアイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列した。ペロンはその3年後の1955年に軍事クーデターにより大統領の職を追われ、パラグアイ経由でスペインに亡命した。

後日談になるが、亡命したペロンはその後スペインで元ナイトクラブ歌手のイサベルと再婚する。亡命の間も「ペロニスタ」と呼ばれる支持者がアルゼンチン国内で影響力を持ち続け、1973年7月に前大統領が辞任したことを受け「ペロニスタ」達はペロンに対しアルゼンチンに帰国して大統領選挙に出馬するよう請願。その後行われた大統領選挙にペロンが勝利し同年の10月に再び大統領に復帰し、副大統領には自らの妻であるイサベルを就任させるが、わずか1年後の1974年7月に病死する。

無学ながらもその美貌と野心でファースト・レディーまで登りつめたエバは、税金から支出させた金、さらに基金から横領した金を基に贅沢をする一方、同時にブルーカラーの人々を中心とした国民に愛された。2012年にはアルゼンチンペソに彼女の姿が描かれている。

エバと同時期に生きたアルゼンチン人で、高等教育を受けながらも革命家となり、革命成立後についた要職も名声も捨て戦いの場に身を投じ、アメリカの支配する資本主義から独立しようとしたチェ・ゲバラとは対照的である。志向は異なるが、エバもまた魅力的な人物であったのは間違いないだろう。

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