Simón Bolívar

第40回 解放者シモン・ボリバル


Simón Bolívar

米大陸の独立を語るうえで欠かせない人物がいる。「解放者」シモン・ボリバル(Simón Bolívar)である。

シモン・ボリバルは1783年、現在のベネズエラ、カラカスで生まれた。ボリバル家は16世紀にバスク地方のビスカヤからベネズエラに移住した家系でありアメリカ大陸有数の資産家であった。クリオーリョの富裕者層であったボリバルは修学のためにヨーロッパに渡り、スペインで知り合ったマリアと19歳で結婚。そして彼女とともにベネズエラに戻ったが、マリアは南米の黄熱病に罹り結婚の翌年に死亡。シモン・ボリバルは深い喪失感からだったのだろうか、その後生涯独身のままであった。

傷心のボリバルはヨーロッパでしばらくナポレオンが仕えたが、ベネズエラ出身の軍人フランシスコ・デ・ミランダがベネズエラ独立戦争を始めると、これに興味を抱き帰国。そして反王政派に加わり、カラカスの自治議会設立に参画した。1811年、憲政会議がベネズエラ独立を宣言するとボリバルは国軍に入隊した。

反乱軍とスペイン軍との戦いの最中、ヌエバ・グラナダ(現在のコロンビア、ベネズエラ、パナマ、エクアドル)のカタルヘナでボリバルは徹底抗戦を誓う宣言を行い、ネネズエラ解放遠征軍司令官に任命された。しかしながら、スペイン本国でスペイン独立戦争が終結すると独立鎮圧軍は体制を整え、1815年にカタルヘナも陥落。ボリバルはイギリス領ジャマイカに亡命することとなる。

ボリバルはイギリスの立憲君主制のような政治システムの下に南アメリカ諸国の独立を夢見ていた。黒人奴隷の解放を約束し、ハイチの援助を取り付けたボリバルは再びベネズエラでスペインとの戦闘を開始した。ボリバルは何度かの敗北を繰り返したが、イギリスの影の支援もあり、1819年スペイン帝国軍にボゴタ北部のボヤカで勝利、この勝利により独立を勝ち取ることとなった。

1819年、ボリバルはヌエバ・グラナダ共和国大統領兼軍指揮官になった。現在のベネズエラ、コロンビア、パナマ、エクアドルを合わせた地域をコロンビア共和国(大コロンビア)として宣言した。 しかしクアドルのキトやグアヤキルは依然としてスペインの支配下であったためボリバルはキト攻略後、ペルーまで進軍。ボリバルの部下で盟友スクレの活躍もあり、1824年ペルー解放がなされた。1825年、アルト・ペルー共和国議会は独立におけるボリバルとスクレの功績を讃え、独立に際して国名をボリビア、首都名をスクレと定めている。

南アメリカ大陸のすべてのスペイン領が独立するとボリバルは南アメリカ大陸の新独立国家群に独立保全のための協議を行うよう提案した。1826年に会議は開かれたが、参加したのは大コロンビア、ペルー、中央アメリカ連邦、メキシコの4か国だけだった。チリ、アルゼンチン、ブラジルはボリバルの影響力拡大を懸念して参加しなかった。この会議においては参加各国の相互防衛条約が締結され、また市民権の相互承認や域内戦争の禁止、奴隷貿易の禁止など(ボリバル主義)が可決されたが、この条約は大コロンビアの議会しか批准せず、ボリバルの構想した相互防衛の枠組みは成立しなかった。

こうして誕生した大コロンビアだったが、国内での地域間対立が激しく、また政治思想の対立も深まる一方であった。1829年にはベネズエラが大コロンビアから独立、翌年にはエクアドルも独立し、大コロンビアは瓦解した。1830年にはボリバルは自身の役割を悟りヨーロッパへ渡る決意をしていたが、腸チフスに感染し死去。

ボリバル家は南米有数の富豪であったが、奴隷の解放、農園・鉱山の売却、私財のすべてを解放戦争に投じたため、死去する前にはほとんど資産がない状態だった。かつての部下はボリバルを裏切り、解放戦争により得た権力で私財を蓄え、各国の支配層になっていった。死の直前に「革命の種子を播こうとする者は、大海を耕す破目になる」という言葉を残している。

彼の名前は今でも南アメリカに大きな影響を与えている。ボリビアの国名はボリバル家に由来、コロンビア、エクアドル、そしてベネズエラではそれぞれシモン・ボリバル国際空港の名前の空港を持っている。ベネズエラの通貨単位はボリバルであり、1999年にはベネズエラ・ボリバル共和国と改名されている。無数の地名にボリバルの名を冠したものがあり、資産は残らなかったが、このダンスが上手な情熱的で理想主義者の名前は永遠に歴史に名を刻むことになった。

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