第43回 内戦への足音


1923年のクーデターによりプリモ・デ・リベラ独裁政権が誕生した。独裁政権はモロッコ民族運動をフランスとともに平定し、その後は文民の採用による軍事政権色の払しょくや積極的な公共事業投資を行うなどして経済成長を促したが、確たる支持基盤のない政権は脆弱だった。通貨下落に始まる経済危機によりリベラは民衆、国王、そして軍隊からも見放され1930年にフランスに亡命した。

1931年の全国選挙により独裁政権以前の政治が目指されることとなる。その結果、都市部では共和政支持者と農村部では王政支持派にわかれた。選挙結果を受けて、バルセロナでは「イベリア連邦内のカタルーニャ国家」宣言がなされた。これに対して地方のボスが管理する選挙制度に統制されない都市での選挙結果を重視した軍は王政を支持せず、その結果、国王アルフォンソ13世は退位し、第二共和政政権が誕生した。

共和派と社会労働党からなる政府は次々と社会改革政策を打ち出した。1931年末には主権在民、自治権の承認、政教分離などを骨子とする憲法が定められる。一方、反改革派の人々は「信仰、1つのスペイン、家族、所有権、社会秩序」をスローガンに結集していくことになる。

共和政の革命は無血革命だったが、反対勢力である大地主、教会、治安組織・官僚組織などを解体しなったことが抵抗を可能とすることになった。反対派の活動工作もあり、共和派・社会労働党政府は1933年の総選挙で敗れ、中道・右翼連合政権が誕生した。「暗い2年」と呼ばれるこの時期に共和政の下に行われた諸改革は次々と覆されていく。カタルーニャでは自治政府が中央政府に反抗する試みがあったがすべて軍により鎮圧された。

しかしながら左翼サイドは人民宣戦協定を結び、1936年2月の総選挙では政権を奪取すると再び改革を再開した。これを受けて反対勢力や軍は合法的なやり方を放棄しクーデターを画策した。またプリモ・デ・リベラの息子ホセ・アントニオが創設したファシスト党ファランヘにキリスト教右翼の若者が流れ込み、左翼勢力と衝突した。ファランヘの党員により共和派軍人らが暗殺され、その報復として保守党の中心人物であるソテーロも暗殺された。1936年の総選挙以降、右派と左派の対立は日増しに深刻の度合いを深めていくことになる。

そしてついに1936年7月17日、スペイン全土を荒廃させ、数多くの悲劇を生み出すこととなる戦いが起こる。
(発行人)

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