第45回 スペイン内戦2


1937年4月、フランコは軍・政府・政党を掌握し総統の地位に就いた。一方共和国政府(人民戦線)にとって戦局はますます不利になっていく。マドリードでは街路にバリケードが築かれ、前線には塹壕が掘られ、要塞化していった。反乱軍の攻撃に耐えつつも攻勢に出たが、なかなか大きな成果が挙げれれないままでいた。1937年秋、スペイン北部が陥落し、38年4月にはアラゴン戦線が破られ、政府側の支配地域は二部されることとなる。この間首都はバルセロナに移されることとなる

人民戦線派にとって戦局が悪化するとともに、共和国内部での権力闘争が激化した。36年にはアナキストや共産党を含む全党派から構成される政府が誕生したが、その政治的な対立は37年5月にバルセロナでの内部の武力衝突まで発展。ソビエトの支援もあり、アナキストらは後退したが、共産党が台頭、共産党は強力な戦時体制を取ることになる。

1938年12月、フランコ将軍はカタルーニャ地方で総攻撃を開始。共和国軍は敗走しついに政府は解体した。39年3月には反共産党勢力がマドリードでクーデターを起こし、防衛協議会を設置してフランコとの交渉を開始した。しかしフランコは無条件降伏を求め、結果共和国サイドもこれを受け入れざるを得なかった。1939年4月1日、フランコは勝利宣言を行い、スペイン内戦は終結した。

戦後フランコ総統は左翼やカタルーニャ地方やバスク地方などの地域ナショナリズムを徹底的に弾圧し、ドイツやイタリアなどのファシズムを模倣して体制強化に努めていった。軍事法廷では人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑されている。こうした弾圧は多くの国外亡命者を生み出し、ETAなどの反政府テロ組織を生み出す要因ともなった。亡命者の多くは知識人が多く、例えば亡命先のメキシコの出版業界大手は亡命スペイン人により設立されている。

1939年9月には第二次世界大戦が勃発すると、スペインはこれに参戦はしなかったものの、快進撃を続けるドイツ軍やイタリア軍へ便宜を供与した。連合軍が反撃に転じ、枢軸国の敗色が濃厚になると連合国に接近し、ファシズム色を弱め、表面的に民主制度を導入していったが、もともと独・伊の支援により勝利を得たフランコ政権に対して、戦後国際社会は厳しい態度を取ることになる。

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