第46回 フランコ独裁


スペインは第二次世界大戦で中立を保ったが、ドイツへの諜報活動の協力など親枢軸国的な態度により、米国の怒りを買い、そして欧州経済共同体への加盟も民主主義国でないとして認められず、国際社会は1946年12月国連の総会にてスペイン・フランコ体制が非民主的でスペイン人の支持を得たものでないと批判し、加盟国に断交を推奨する決議が採択された。これによりアメリカや欧州各国はスペインから大使を召還する。

フランコは統制経済を行いつつも、政治制度は最終的には君主制に移行するべきだと考え、1947年に「国家首長継承法」を制定。これによりスペインは「王国」でありフランコが国家元首として「王国の終身摂政」となることが決定した。国民の圧倒的多数は支持したものの、資源の少ないスペインは自給自足が不可能であり、国際的に孤立した中で国民生活は困窮していく。

こうした危機的状況を救ったのは冷戦だった。アメリカはスペインを戦略的に共産主義の砦とし、フランコ独裁支援へと政策を転換。1953年にはアメリカと軍事同盟を結ぶことを引き換えに経済活動を支援し、スペインの国際社会への復帰を後押しした。フランコ政権は自給自足政策を放棄、アメリカなどの外国資本を導入し、60年代に「奇跡」と呼ばれる経済成長を実現した。また気候が良く、物価が他国よりも安く、その上治安も安定していたスペインへ多くの外国人観光客も訪れ、観光収入も経済成長を支えた。

経済的発展が進む一方、政治的自由は制限されたままであった。しかしながら、水面下では反独裁政権への動きも進んでいた。バスクやカタルーニャ地方の地域ナショナリズム組織や共産党組織だけでなく、キリスト教民主主義の知識人らも反独裁体制の運動に加わっていくこととなる。

フランコは自分の死後もフランコ体制を存続させようと考え、反体制運動を非常事態宣言により弾圧する一方、アルフォンス13世の孫、フアン・カルロスを後継元首に指名し、ルイス・カレロ・ブランコ提督を首相に任命し、事実上の後継者とする構想を描いていた。

1973年、ETA(祖国バスクと自由)がブランコを爆殺、翌年フランコが病に倒れると反体制組織は共同戦線を組み、独裁体制打倒に動きを強めた。1975年フランコは亡くなり、フランコの操り人形と思われていたフアン・カルロス1世が即位。この時点でどのような政治体制が展開されるか不透明であった。

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