第52回 アステカ


メソアメリカ文明で最も有名なものはアステカとマヤではないだろうか。アステカ=生贄=野蛮という偏ったイメージを持たれがちであるが実際はどのような社会・文明だったのだろうか。

アステカ人の移動と定住はそれほど古いものではなく、メキシコ盆地にたどり着き、1325年にテスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。蛇を捕まえた鷲がサボテンの上に止まっているのを見たアステカ人はこの地が神に与えられし予言の地と考えた。このエピソードは現在のメキシコの国旗にも反映されている。後に島の南部が首都テノテチティトラン、北部がメキシコ盆地最大の市場トラテロルコへと発展した。

当初、アステカはメキシコ盆地最大勢力のアスカポツァルコへ朝貢しその庇護を受けて属国として勢力を拡大していった。アスカポツァルコの王テソソモクが亡くなると、かつて反目し吸収された都市テスココとともにアスカポツァルコに反旗を翻し(1428)、メキシコ盆地の覇権を握ることとなる。その後も周辺国家との争いを続け、15世紀後半までにはアステカ帝国は太平洋沿岸部までその領土を拡大していた。

首都テノチティトランは先スペイン期における南北アメリカ大陸にまで発展し、数多くの神殿、王宮、広場、球戯場、学校、道路、水路が整備されていた。中には動物園まであったという。とりわけ整備が進んでいたのが治水事業である。テスココ湖の干拓をはじめ、洪水を防止するために16kmの堤防の建設なども行われている。また支配した領内の旧支配者などを復活させて間接統治する法治制度も整え領土を確実に広げていった。かつてのアステカ帝国の首都テノチティトランは現在のメキシコシティでもある。

アステカ文明はオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承し土木、建築、陶芸などに秀でていた。その一方で太陽が消滅するという終末信仰が普及しており、新鮮な人間の心臓を太陽神に捧げることで太陽の消滅を避けることができると信じられていた。そのため人身御供の神事が必要とされ、その対象は戦争捕虜や奴隷から時には貴人や若者、小児までにいたった。生贄の儀式は我々現代人からすると野蛮に思えるが、アステカでは名誉なことでもあったという。

優れた治世者として知られいたアステカ国王モクテスマ2世が在住の1519年、エルナン・コルテス率いるスペイン人が到来した。その時点で首都テノテチティトランおよび周辺の人口は数十万人に達しており、世界最大級の都市として栄えていた。白い肌を持つ ケツァルコアトル神が戻ってくるという伝説に惑わされたという事情があったものの、征服者らの強欲さと持ち込まれた疫病により1521年にコルテスはアステカを滅ぼした。

破壊したテノテチティトランの上にメキシコシティは築かれているため大神殿などの遺構は多くないが、世界遺産メキシコ市歴史地区とソチミルコでその一部をうかがい知ることができる。

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