第53回 マヤ文明


メキシコを代表するマヤ文明、それはいったいどのようなものであったのか。

マヤ文明は紀元前1000~前400年ぐらいに勃興し、メキシコ南東部のユカタン半島から中央アメリカ北西部(ベリーズ、グアテマラ、ホンジュラス)で興隆した文明である。スペイン人が侵略した16世紀まで2000年以上もの間、大きく変化し続けた文明である。

マヤ文明のユニークな点はその多様性である。マヤ文明の繁栄した地域は起伏の激しい高地、熱帯雨林の低地南部、比較的乾燥した北部の低地と分かれる。また共通言語がなく30ものマヤ諸言語が使われてきた。現代でも800万人以上のマヤ人の子孫らに使われている。

先スペイン期の長い歴史の中でマヤ地域は統一されることはなかった。マヤ低地ですら政治的に統一されることはなく、複数の広域国家が形成された時期と無数の小都市国家が林立された時期を繰り返すのがマヤの歴史の特徴でもある。

先古典期に勃興したマヤ文明は小都市国家が発展し、古典期(250~1000年)にはティカル、カラクルム、アグアテカ、ヤシュハ、パレンケ、コパンなど数多くの都市国家群が小都市を従え覇権を競った。戦争や権力闘争は行われてきたものの、旧大陸の古代文明で見られるように一つの王朝が遠隔で別の王朝を征服し乗っ取ることはなかった。巨大な都市の王朝は小都市の王朝に内政干渉を行い、政略結婚などが行われていた。

古典期後期と呼ばれる600~1000年はマヤ全盛期であった。壮麗な建築物、石彫、石細工、土器などの作品にマヤの芸術性がうかがえる。また天体観測に基づく暦の計算や算術、文字記録も発達したのもこの頃だ。碑文に刻まれた記録からも歴史の保存には高い関心を持っていたことが推測できる。マヤ文明で最も有名な遺跡で世界遺産でもあるチチェン・イツァも後古典期マヤの遺跡である。

マヤ文明でも生贄の習慣はあった。心臓を神に捧げる、セノーテと呼ばれる泉に生贄を投げ込む、球技の勝者(または敗者)の命を生贄にすると様々な形で生贄の儀式がマヤでも存在していた。戦闘食の強いトルテカ人の影響とも言われるが、それは現代人の感覚で残虐行為と一蹴されるものではなく、神への宗教儀礼であったと言えよう。

1523年に現在のグアテマラに上陸したスペイン人コンキスタドール、ペドロ・デ・アルバラードはマヤ諸王国の制服を開始、次々とスペインからやってくるコンキスタドール達により瞬く間にユカタン半島は征服されていった。反乱を起こした部族もいたが、金属の武器もなく、大規模な国家や軍事力を持たないマヤ文明ではスペインの侵略にひとたまりもなかった。遅くまで自立を保っていたタヤサルが1697年に陥落し、マヤ全域がスペイン領として併合された。

最後に専門家による連載を紹介しておく。
マヤ文明と終末論の真実(ナショジオWEB)

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