第56回 マチュ・ピチュ


古代南北アメリカの歴史を通じて旧大陸とは全く異なる進化の過程を経てスペイン人と出会った。血で血を争い、大きな戦争を繰り返し、様々な面で進歩を重ねてきヨーロッパ人に新世界の人々が太刀打ちできなかったのも無理はない。しかしながら、旧大陸の技術でも驚愕するテクノロジ―が新世界にもあった。そのようなものとして最も有名なものの一つがインカ文明の遺跡マチュ・ピチュではないだろうか。

マチュ・ピチュは1911年7月にアメリカ人の政治家であり大学教師であり探検家のハイラム・ビンガム(インディアナ・ジョーンズのモデル)により発見された。近年の研究によるとマチュ・ピチュはすでにペルー人農場主が発見していたというが、世界に知らしめたのはビンガムであることは間違いない。

マチュ・ピチュ自体はそれほど古いものではなく、15世紀のインカ帝国の遺跡である。インカの首都はクスコで標高3400m、マチュ・ピチュは自体はそこより1000mほど低い山の尾根にある。マチュ・ピチュはインカの失われた古代都市遺跡と考える人が少なくないが、近年の研究によると王族や貴族のための避暑地や別荘といった種類のものであり、住んでいた住人はほんの一握りであった。インカの王パチャクティ治世の1440年頃に建設が着手され、1532年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、平和的に人々の生活が続いていたという。

一説によると外敵に対する砦だという説もあるが、現在では戦争のための要塞などではなく、東西が断崖のマチュ・ピチュは太陽の動きを知るのに絶好の場所であったことや、太陽を崇拝していたインカ帝国ではでは太陽を観測するための建物群と推測されている。実際に太陽の神殿は東側の壁が2つ作られていて、左の窓から日が差し込む時は冬至、右の窓から日が差し込む時は夏至と区別できるようになっている。

当時の巨石の運搬などいろいろなことが明らかになってきたが、マチュ・ピチュの場合は傾斜路を造る余地がないため、どうやって5~10tもある巨石を運び上げたかはまだ謎である。また誰がどのように管理して、王が亡きあとも増改築をしていったのかも不明である。

1572年インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルはスペイン軍に捕らえられクスコで拷問ののち処刑された。1611年にスペインの老兵がインカ最後の皇帝トゥパク・アマルが出撃した場所は「非常に高い丘の上にあり、そこからビルカバンバ地方の大半を見渡すことができた。この上なく広く表面が平坦な広場と非常な知恵と技術によって建てられた威風堂々たる豪華な建物がいっぱいある」場所とマチュ・ピチュを暗示する表現がある。どのような思いで

今もなお解明されない謎が多く残るマチュ・ピチュだがそうした歴史に思いを馳せて訪問するのも悪くない。

こんな記事も読まれています