Puente Romano, Cordoba

第18回 カスティーリャ王国の統合


Puente Romano, Cordoba

11世紀後半にカスティーリャ=レオン王国のアルフォンソ6世はトレドを奪還したものの、1143年アルフォンソ7世の時代にポルトガル王国が独立。さらにカスティーリャ=レオン王国はアンダルシアを支配したムワヒッド朝との戦いで国王アルフォンソ7世が1157年に死亡するとは再びカスティーリャ王国とレオン王国に分裂した。100年も経たずしてのことである。

12世紀半ばにイベリア半島のキリスト教国家を見ると、カスティーリャ王国、レオン王国、ポルトガル王国、ナバラ王国、アラゴン王国などが存在したが、彼らはレコンキスタ活動を行う上で一枚岩ではなかった。そんな状況を憂いた教皇イノケンティス3世はカスティーリャ王国アルフォンソ8世の指揮の下、大同団結してイスラム勢力の排除を命じた。

その命を受け、イベリア半島のキリスト教連合国に加えて、テンプル騎士団、騎士修道会らが集結し、 10万以上の兵を率いたムワヒッド朝ムハマンド・ナースィルを1212年、ナバス・デ・トロサの戦いで破る。この戦いはレコンキスタの帰趨を握る重要な戦いであった。この勝利はキリスト教連合国のレコンキスタの進展に大きな弾みを付け、イスラム勢力の衰退を決定づけた。

アルフォンソ8世の娘とレオン王アルフォンソ9世との間に生まれたフェルナンド3世は1230年、父であるレオン王の死去に伴い、すでに国王であったカスティーリャ王国とレオン王国を統合、以後レオン=カスティーリャ王国は単に「カスティーリャ王国」と呼ばれるようになる。同王国はナスル朝の協力などもあり、コルドバやセビリアのタイファ(イスラム小国家)を次々と攻略し、残るはイスラム勢力ナスル朝グラナダ王国を残すのみとなる。

ナスル朝はコルドバ攻略の協力や強力なイスラム王朝への朝貢など巧みな外交戦略を取り主権を確保する一方、カスティーリャ王国はフェルナンド3世の子・アルフォンソ10世の治世の下(1252-1284)、ローマ法をベースにした「七部法典」の編纂、カスティーリャ王国と旧レオン王国で異なる政治、法律、通貨、税制、度量衡など統一を行う。また首都トレドやセビリアではユダヤ人らの協力も得て、医学、数学、天文学、法学、歴史学、文学、自然科学の翻訳・編纂も推進し、それらがヨーロッパに広まりった。アルフォンソ10世は学芸の振興に努めたため、「賢王」「賢者」「学者」などを意味するるel Sabioの別名でも知られる。

レコンキスタの最中ではあったが、アラビアの文化や文明、技術なども積極的に翻訳されていった。トレドやセビリアが文明の発信の地としての大きな役割をヨーロッパの中で果たしている時代であったといえよう。

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