La Rendición de Granada

第21回 レコンキスタを終わらせた「夫婦」


La Rendición de Granada

14世紀半ばに起こったカスティーリャ王国トラスタマラ朝の祖となった庶子エンリケ2世とペドロ1世との戦いは貴族階級と王室との戦いでもあった。出自の正当性を強化するためエンリケ2世の孫のエンリケ3世はペドロ1世の娘と結婚したが早世。その息子フアン2世は何と1歳10カ月でカスティーリャ王に即位しているが、特に大きな野心もないフアン2世、そして妻との夫婦生活がなくエンリケ不能王と揶揄されたエンリケ4世の下、有力貴族による揺り戻しが生じ、異母妹イサベルの王位継承指名を余儀なくされる。

イサベルはポルトガルに嫁がされようとしていが、カスティーリャ王国の同盟国はポルトガルではなく、地中海の領海権を領有するアラゴン連合王国の王子フェルナンドと結論を下した。フェルナンドのとの結婚に彼女が踏み切ったのが1469年のことである。

1474年、エンリケ4世が死亡すると夫フェルナンドと共同で王位に就いている。カスティーリャの王位継承問題に介入してきたポルトガル王アルフォンソ5世に勝利し、1479年にフェルナンドの父でアラゴン王のフアン2世がなくなると、彼はアラゴン王位を継承した。カスティーリャ=アラゴン連合王国、つまりスペイン王国の誕生である。

両王は1492年、スペイン南部に残っていたグラナダ王国を制圧し、780年間にわたるレコンキスタに終止符を打った。グラナダ王国に力がなくなっていたとはいえ、長きにわたるレコンキスタ完了させることはたやすいことではなく、戦場を奔走する夫をイサベルはよく支え、兵站面や軍資金の調達面から尽力した。イサベルは願掛けのためグラナダ陥落の3年間、下着を替えなかったという逸話があり、イサベル色(茶色がかった灰色)という言葉も生まれている。

この偉業を称え、ローマ教皇アレクサンデル6世はフェルナンドとイサベルを「カトリック両王」の称号を授けている。イベリア半島においてレコンキスタを完了させたとはいえ、まだスペインは一つの国ではなく、あくまでも君主同士の結婚に過ぎなかった。

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