Hernán Cortés

第26回 コンキスタドール(1)アステカを滅ぼしたコルテス


Hernán Cortés

15世紀から17世紀にかけてコンキスタドールと呼ばれるアメリカ大陸の征服者・・探検家と呼ばれる人々がいた。日の沈まない国・スペインの海外領土拡大に大きな役割を果たしたが、それはいったいどのようなもので、何をもたらしたのだろうか。

コンキスタドール(スペイン語で征服者)はスペイン王の許可を必要としたが、多くの場合は財政支援などなく、自ら資金と人を集めて組織化した少人数の武装集団であった。命の危険が伴う一方、少数人数で莫大な財産を得た者たちもいる。しかしながら悲惨な結末に終わった者たちも少なくない。

代表的なコンキスタドールとしてよく知られているのが、1521年にアステカ王国を侵略したエルナン・コルテス、1533年にインカ帝国に対するフランシスコ・ピサロがいる。日本人が知る彼らは残虐な略奪者のイメージが強いが実際はどのようなものであったのだろうか。

エルナン・コステスは若くしてカリブ海のイスパニョーラ島に渡り植民者となった。ディエゴ・ベラスケスのキューバ征服に参加しこれを大いに助けたが、のちに離反して約500名の兵を率いてメキシコ探検隊の指揮官としてメキシコへ到達する。ユカタン半島に上陸したコルテスは先住民に奴隷としてとらえられていたスペイン人修道士アギラールに出会い、そこで現地の言葉と習慣を学び、また現地の族長の娘マリンチェを贈られる。アステカの言葉であるナワトル語とユカタン半島のを中心に使われるマヤ語の双方に通じたマリンチェのおかげによりスムーズにコミュニケーションが進んだという。キリスト教にも改宗したマリンチェは後にコルテスの妻となり、男の子を産んだが、現代のメキシコのでも国を売った女ともみなされることがある。

コルテスはアステカ帝国の圧政下(過酷な税制や生贄にする捕虜の獲得)にあり反発を抱いていた諸民族と軍事同盟を結ぶことになる。コルテスはスペイン人と現地人の混成軍を率いてアステカの町チョルーラに進軍。マリンチェを通じて住民(王の差し金)が奇襲を企んでいることを知ったコルテスは先手を打ち、住民を虐殺し、間日に火を放ったという。それに震え上がったアステカの住民はコルテス軍につくか、邪魔をしないという選択をすることになる。

1519年、コルテス軍はアステカの首都・テノチティトランへ到着する。インディオたちに白い神ケツァルコアトルの化身と勘違いされたというコルテスは、アステカ王モクテスマ2世に丁重に迎えられ、6日間案内されて見学した。人工島であるテノチティトランは生贄の心臓を神にささげるという習慣がある一方、30万人の人々が風呂やサウナまで楽しむようなインフラの整備された文明の発達した水の都でもあった。

コルテスらを寛大にもてなしたモクテスマだが、やがてコルテスらにより宮殿に幽閉されることになる。身代金として莫大な黄金を要求し続けたコルテスらに対して住民の不満は高まる中、スペイン人は先制攻撃を仕掛けた。キューバ総督の軍隊と戦っていたコルテスだったが、知らせを聞くとすぐにテノチティトランに引き返し、総督の軍勢を黄金で寝返らせた。戦闘の最中に王は亡くなったがアステカ市民の敵意は収まらず、首都に渡る橋を破壊されて脱出できなくなったスペイン人側にも多数の死者が出ている。この時、天然痘に罹っていたと思われるアフリカ人奴隷が殺された。

その結果、天然痘に対する免疫を全く持たないアステカの人々は1年足らずの間に人口の40%を減らすことになった。病が蔓延した上にコルテス軍から孤立させられたテノチティトランは激しい攻防戦の末、1521年8月に陥落。アステカとの戦いでコルテスに協力した先住民は20万人にも及んだが、戦争が終わると同盟国であった王たちも殺されることとなった。

略奪されたテノチティトランの上に建てられのがメキシコシティの前進となる町である。メキシコはやがて「新スペイン」(Nueva España)と呼ばれ、銀山の発見はさらなるスペイン人を寄せ集め、軍事力と病気により先住民は追いやられることになる。

このように破壊的略奪行為を行ったコルテスだが、スペインではかつてペセタ紙幣に肖像画が使われるほどの人物であり、人身御供などの「野蛮」な先住民の習慣を終わらせ、キリスト教による福音をもたらしたと考える見解を占める者もスペインでは少なくない。

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