Discovery of the Mississippi

第28回 コンキスタドール(3)ミシシッピ川を発見した男


Discovery of the Mississippi

多くのコンキスタドール達がそうであったように、エルナンド・デ・ソトはスペインでも貧しい地域としてエストレマドゥーラ地方の出身であり、富を求めて海外へ出た若者の1人だ。

デ・ソトはフランシスコ・ピサロのインカ征服に加わり大きな富を得てスペインに戻った。現代の視点からすると略奪・虐殺などの残虐行為の積み重ねによる得た富であったが、征服者の英雄として迎え入れられた。キューバ総督の職を与えられ、北アメリカの植民地化も期待されていた。

ちょうどそのころ北アメリカの探検を終えて戻ってきたアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカの話に興味を持ち、620名のスペイン・ポルトガル人、7隻のガレオン船、2隻のキャラベル船を率いて北アメリカに向かった。

1539年フロリダ州ポートシャーロットに上陸。そこでパンフィロ・デ・ナルバエスの遠征隊員でカルーサ族に捕らえられていたフアン・オルティスと名乗る若いスペイン人と出会う。このときオルティスの語った「酋長ヒッリヒグアの娘が、父親である酋長が生きたままオルティスを火あぶりにする命を出した時に彼の命を請うた」という真偽不明なエピソードがのちにイギリス人船乗りジョン・スミスの吹聴した「ポカホンタス」の美談の原型と一説に言われている。監禁と拷問を生き延び、遠征隊に参加したオルティスは地方の隅々を知っており、また通訳としても役に立ったため、遠征隊のガイドとして重用された。

デ・ソト一行の遠征は植民地の拡大、黄金そして中国への道(当時はアジアへつながると考えられていた)を求めて、アメリカ合衆国南東部一帯に及んだ。1540年にはアラバマ中央部でインディアンの村と交戦状態になり、マビラの虐殺と呼ばれる戦闘によりインディアンを皆殺しにしている。遠征隊は勝利こそしたが、物資と多くの馬を失い困難な状況に追い込まれていた。1541年5月、デ・ソトは記録上、最初にミシシッピ川を発見した白人となった。ミシシッピ川を渡り、アーカンソー、オクラホマ、テキサスまで遠征を続けている。しかしながら、フアン・オルティスが死亡すると遠征は困難なものとなり、1542年にはデ・ソトも熱病で死亡した。

デ・ソトは黄金も植民地化できる場所も、もちろん中国への道(!)も発見できず、最終的には半数が死亡するという困難を極めたものであった。一方、彼らの行動がのちの新大陸に少なからず影響を与えている。逃げ出した馬が北アメリカ西部でムスタングの個体群とない、米国南部に豚肉をもたらした。またインディアンと白人の敵対関係のきっかけとなり、ほかの遠征とインディアンの衝突を引き起こした。また遠征隊の持ち込んだ伝染病も見逃すことができない。多くの先住民族が亡くなっている。

デ・ソトの遠征は失敗だったが、インディアンに最初に白人と接触した時の記録や地理的、生物学的、民族学的、医学的な知識に貢献したという。またスペインによるメキシコより北の領地の獲得戦略にも影響を与えている。現在でもデ・ソトの名前はアメリカに残っており、ミシシッピ州デソト郡、ルイジアナ州デソト郡、フロリダ州ヘルナンド郡とデソト郡はエルナンド・デ・外にちなんで名づけられている。

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