Defeat of the Armada

第32回 衰退の兆し


Defeat of the Armada

16世紀後半のフェリペ2世治世のスペインに話を戻そう。

スペイン国王フェリペ2世は1580年にポルトガル国王も兼任しヨーロッパから中南米、アフリカ、東南アジアに及ぶ広大な地域の帝国の王として君臨した。まさに「太陽の沈まぬ国」スペイン帝国の最盛期を迎えていた時期である。コンキスタドール達により次々と征服された新大陸からは莫大な金銀や特産物がスペインにもたらされていた。

しかしながら「宗教問題」という火種はくすぶっていた。プロテスタントの人々にカトリックを強要するスペインの圧政に対してネーデルランド北部7州(オランダ)は1581年にフェリペ2世の統治権を否認し対立を強めていた。ネーデルランド北部諸州のみだけ考えればスペインの敵ではなかった。しかしその陰にはイングランドがいる。スペインとイングランドは宗教問題やイングランドのネーデルラントへの介入によって悪化しており、またイングランド私掠船によるスペイン船や入植地に対する海賊行為もスペイン王フェリペ2世が侵攻を決意した要因の一つに挙げられる。

1588年5月、シドニア公率いる約130隻のスペイン無敵艦隊(アルマダ)はリスボンを出発。スペイン艦隊は7月末から8月初めに行われた一連の海戦の後、グラヴリンヌ沖海戦でイングランド艦隊に敗北して北海方向へ退避。スコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指したが、悪天候によって大損害を蒙ってしまった。結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻、死傷者は2万に及んでいる。この戦いの後、イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、スペイン側は艦隊を再建して制海権を守り通しており、最終的には1604年にスペイン側有利で終わっている。

この頃からスペインに覇権の衰退の兆候が現れ始めていた。一番の問題は国庫の破綻であろう。貴族の爵位、領主権などの売却、新税の導入を行い、またスペイン領アメリカからの貴金属の着荷も最大になったが、イングランドとネーデルランドとの戦争により軍事費増大が増大。国庫の破綻は防げず、1596年にはバンカロータと呼ばれる破産宣告を行っている。さらに同じ年から約3年にわたってペストが流行する。1598年、フェリペ2世が死の床につくころには「スペインの時代」の終わりが見え始めていた。

続くフェリペ3世は病弱であったため、その23年に及ぶ治世を取り仕切ったのは、臣下のレルマ公爵とウセダ公爵であった。しかし大帝国の国政を担うには彼らは力不足であることは否めなかった。1609年にはスペイン全土からモリスコ(キリスト教に改宗したイスラム教徒)の追放が行われたが、その多くは農民でありスペイン農業は大打撃を受け、深刻な食糧不足に陥ったといわれる。

そして1621年、16歳の若さで即位したフェリペ4世は国政のほとんどを寵臣オリバーレス公伯爵に長らく一任していた。この時点でスペインはヨーロッパの強国であり、文芸や文化面でも優れた人材を輩出していた。ベラスケス、ルーベンスなど誰もが知る画家がスペインやスペイン領で活躍したのもこの時代である。

大国としての地位は保ちつつも、旧態然とした封建体制を残したままのスペインは、国民国家形成という意味で後進であったイングランドやオラン ダ(ネーデルランド連邦共和国)に遅れを取ることになる。中央集権主義による政治はアラゴン連合のカタルーニャを強く反発させ暴動がカタルーニャ全土に広がった。また列強の支援を受けたポルトガルやオランダは独立し、フランス・スペイン戦争を終結させたピレネー条約によりカタルーニャ地方の5分の1をフランスに割譲することになるなど、フェリペ4世の治世はスペインの衰退が決定的となった時期にも重なった。

政治家としては見るべき功績を残さなかったフェリペ4世ではあったが、性格は至って善良で、カスティーリャ国民には愛されたという。乗馬や射撃の名手であり、ベラスケスやルーベンスを保護して傑作を数多く描かせ、当代随一の目利きとしてヨーロッパ最高の美術コレクションを築き、後のプラド美術館の礎とした。

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