El tres de mayo de 1808 en Madrid (『マドリード、1808年5月3日』)

第36回 スペイン独立戦争


El tres de mayo de 1808 en Madrid (『マドリード、1808年5月3日』)

1787年にフランス王権に対する貴族の反抗が、1789年にはバスティーユ襲撃に始まり社会全体を巻き込む本格的な市民革命へと広がった。フランス革命である。

そのころ、スペインではカルロス3世が没し、息子のカルロス4世がスペイン国王の座を引き継いだが、公務は王妃マリア・イルサ・デ・パルマと寵臣マヌエル・デ・ゴドイに任せ、統治能力の欠ける自身は狩りに勤しんだ。ゴドイは国庫の安定化を図り、財政的見地から改革を進めたが、フランス革命に恐怖を感じ、異端審問制の検閲権限を強化するなど、政治的・思想的自由を厳しく取り締まるようになっていたた。

フランスでは1791年に王政が廃され、フランス第一共和国が樹立。フランス最後の絶対君主で国王ルイ16世(ナバラ国王としてはルイス5世)はギロチンで斬首刑に処された。その後もフランス国内は王党派、ジャコバン派など入り乱れ、過激な革命運動が行われたが、1799年にナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こし帝政を樹立し独裁権を掌握した。

ナポレオンはトラファルガーの海戦でイギリスに敗れるとイギリスに荷担したポルトガルをスペインと分割することとし、これをスペインに認めさせた。また彼は産業革命の真っただ中のイギリスを封じ込め、フランスと通商させることでヨーロッパ大陸の経済をコントロールしようと試みた。大陸封鎖令(1806年)を発令しフランスに従属したドゴイは同調したが、スウェーデンとポルトガルは中立を表明した。

ナポレオンはポルトガル侵攻を行うためイベリア半島に派兵を決定。そして仏・西軍のポルトガル占領を補強するという口実として、スペインの要衝にフランス軍は派兵・駐屯させることとなった。摩擦を起こすフランス軍の進駐に対して、スペインでは貴族や民衆から反発を招くことになった。カルロス4世は退位、ゴドイは失脚し、代わってフェルナンド7世が即位した。しかし、カルロス4世と退位を翻したカルロス4世の対立が続く中、ナポレオンは親子二人を強制的に退位させ、自分の兄ジョゼフにスペイン王位を与えたのである。

ジョゼフはホセ1世と改めスペイン統治を行おうとするものの、フランス人の支配を嫌うスペイン人の反乱を引き起こすこととなった。 1808年にマドリッドで起きた民衆の蜂起はスペイン全土へと広がることとなる。ゴヤの「マドリード、1808年5月3日」で様子が描かれている。常勝軍であったナポレオンのフランス・大陸軍はスペイン南部のバイレーンの戦いでの初の降服を経験することになる。この戦いによりホセ1世はマドリッド撤退を余儀なくされた。

しかしながら、ナポレオン自身が20万人を率いてイベリア半島に進軍してきたことで戦局は一変。ポルトガルに上陸していたイギリス軍を撤退させ、そしてスペイン軍を壊滅させた。スペインの大半がナポレオンの支配下に置かれることになる。正規軍崩壊後、スペインの人民に支持された不正規軍(主に敗残兵、農民、下級聖職者など)がゲリラ活動を行い始めた。ゲリラ”guerrilla”とはスペイン語の「戦争」を意味する”guerra”に縮小辞がついた言葉でスペインで生まれた戦法である。

フランス軍はゲリラ兵を正規兵として扱わず、逆賊として処刑していたため、報復の連鎖が続くことになる。ゴヤの版画集では「戦争の惨禍」としてこの戦いを描いている。フランス軍は35万を超す兵力がスペイン軍内に駐留していたが、その大半の20万を超す兵が補給路防衛で失われている。

それまで優位であったフランスだが、1812年にナポレオンがロシア遠征を行うため、スペイン駐屯軍の一部を割くと、フランス軍は苦境に陥った。1813年、ロシアで敗北すると、ホセ1世は退位し、その翌年までにスペイン国内のフランス軍はすべて撤退した。一連のスペイン独立戦争と呼ばれるこの戦いの影響は南アメリカにも及ぶこととなる。

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