Fernando VII

第37回 スペイン自由主義の胎動


Fernando VII

1814年、フランス軍が撤退するとナポレオンにより退位を余儀なくされ、フランスで囚われていたフェルナンド7世は国王に返り咲いた。しかしフランスの占領期間中、スペインは絶対君主制は過去のものとなり、憲法に基づいた開放的な政治が要求されるようになっていた。

フランスの占領を免れていたアンダルシアのカディスでは、フランスの自由主義の影響を受けた自由主義者の主導の下、近代的な議会が開催されていた。1812年に憲法が制定され、国民主権、三権分立などの立憲君主制の表明、異端審問の廃止などが決定されていた。

しかしながら、国王に返り咲いたフェルナンド7世はカディス議会の行動を無効とし、専制君主制の復活を宣言した。合法的な反対のすべを閉ざされた自由主義者たちは陰謀により政府打倒を画策。反政府運動に同調した将校らは「革命宣言」の意味を持つプロヌンシアミエント(pronunciamiento)を宣言し、軍隊が中心に反抗が行われるようになった。

一方、ナポレオンのスペイン征服によりスペイン本国の弱体化、それにより南米各地の植民地では相次いで独立戦争が勃発していた。シモン・ボリバールら卓越した指導者に率いられた南米各地の独立運動を抑えるだけの力はスペインにはもはやなかった。1820年、アメリカの植民地に派遣されるはずの軍隊の一部がプロヌンシアミエントを行うと、各地の軍隊も同調。フェルナンド7世は1812年に制定された憲法体制の復活を誓うこととなる。

政権を握った自由主義政府は議会の定めた諸法令を実行に移したが、穏健派と急進派に分裂し、政治的安定をもたらすことに失敗。絶対君主制の復活を目指す国王派の蜂起、都市部では国王派を支持する聖職者たちへの反教権主義の動きも生じていた。また独立に揺れていたヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)では独立に反地していた王党派が革命派を攻撃、これによりスペイン本国から人心が離れてしまい独立への動きを加速させることとなった。

1823年、スペインの革命の進行を恐れたフランスは再びスペインに侵攻し、自由主義政府を瓦解させた。その後10年間、フェルナンドの絶対主義支配が復活し、革命派を厳しく弾圧した。その残虐さは王党派ですら愛想を尽かすほどのものだったという。当然ながら約束をしていた憲法の復活は反故とされた。

1829年、フェルナンドは4度目の結婚でイサベルをもうけた。当初、弟のカルロスの王位継承が期待されていたが、王女マリア・クリスティーナの画策もあり、廃止されていた女子の王位継承権が復活。カルロス派(カルリスタ)は反発する中、フェルナンドは33年に48歳の若さで死去すると、娘の王位継承権を守るため摂政の地位にいたマリア・クリスティーナは自由主義勢力を取り込むため自由主義者の政治的恩赦を行い、穏健派自由主義政府を成立させることとなる。しかしながら、そうした動きに反発したカルロス派は蜂起し、7年に及ぶ内乱にスペインは陥った。

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